高嶋ちさ子さんの母・高嶋薫子さんは、慶応のワグネル(学生音楽団体)出身で、東芝レコードに入社した音楽好きの女性でした。
ただ、印象に残るのは肩書きだけではありません。
ピアノを2カ月でやめさせるほど娘に厳しく、へそくりで180万円のバイオリンを買うほど本気でもありました。
晩年に間質性肺炎で寝たきりになってからも毒舌とユーモアは消えず、葬儀やしのぶ会の場面にまでその濃さが残っています。
「高嶋ちさ子の母」と聞くと厳しい教育者の印象が先に立ちますが、実際には音楽の素養、家族への執着、言葉の強さ、笑いの感覚まで、今の高嶋家の空気をかなり濃く作った人でした。
高嶋ちさ子の母はどんな人?慶応ワグネル出身で東芝レコードにも勤めた女性だった
高嶋ちさ子さんの母・高嶋薫子さんは、慶応のワグネル出身で、ピアノに打ち込んできた女性でした。
高嶋ちさ子さん本人も、母が慶応のワグネル出身だったと話しています。
父・髙嶋弘之さんは薫子さんについて「かわいいだけじゃなくて頭もいいし、話もおもしろい」「藝大を目指してピアノを勉強していたことがあるから音楽の知識も豊富」と振り返っています。
学生時代から音楽に深く入り、会話の面白さや頭の回転の速さまで印象に残る女性だったことが、この証言だけでもよく伝わります。
大学卒業後は東芝レコードに入社し、そこで父と出会って結婚しました。
父が音楽プロデューサー、母が元ピアニストという組み合わせなので、高嶋家が最初からかなり濃い音楽一家だったことは間違いありません。
慶応ワグネル、藝大を目指したピアノ歴、東芝レコード入社という並びだけでも、普通の「芸能人の母」では終わらない音楽への強さがあります。
高嶋ちさ子の母の職業は?東芝レコード入社後に父と結婚していた
薫子さんは大学卒業後、東芝レコードに入社しています。
父・髙嶋弘之さんは当時を振り返って、「もう、かわいらしくてねえ」「かわいいだけじゃなくて頭もいいし、話もおもしろい」と語っています。
さらに、藝大を目指してピアノを勉強していたことがあるから音楽の知識も豊富で、話も合ったとしています。
音楽の話ができて、しかも会話が面白い。父が強く惹かれた理由がかなり具体的です。
しかも結婚まではかなり早く、父は「社内で『かおちゃん』などと気安く呼ばれるのが嫌で、そうなる前に3か月でやめてもらって結婚した」と話しています。この一言だけでも、父の強い愛情と、薫子さんの存在感の大きさがよく出ています。
東芝レコードに入社して父と出会い、すぐに結婚し、その後は高嶋家を支える家庭人になった流れを見ると、母は“音楽好きの女性”ではなく、音楽と家族の中心にいた人だったと分かります。
高嶋ちさ子の母の教育方針は厳しかった ピアノは2カ月でやめさせた
高嶋ちさ子さんの母として最も有名なのは、やはり教育の厳しさです。
高嶋ちさ子さんは4歳でピアノを始めましたが、母から「あなたには才能がない」と言われ、たった2カ月でやめさせられたと明かしています。母は情で習わせ続けるタイプではなく、向き不向きをかなり早い段階ではっきり切る人でした。
ところが、そこで終わりではありません。幼稚園でバイオリンを弾く子を見て憧れ、「やりたい」と頼んだとき、母は最初「ピアノができないからバイオリンも無理」と却下しました。
それでも高嶋ちさ子さんが1年間言い続けたことで、ようやくバイオリンを買ってくれたといいます。
すぐには折れないが、本気だと見れば動く。その厳しさと見極め方がかなりはっきりしています。
さらにレッスンが始まると、母は毎回立ち会って修正点をメモし、帰り道にはダメ出しの嵐だったそうです。
ところが努力を続けた娘には、小学校5年生のとき、へそくりで180万円のバイオリンを買い与えています。
才能がないなら切る、本気なら試す、伸びるなら大金をかける。
薫子さんの教育方針はここからも強く感ます。
高嶋ちさ子の母が厳しかった理由 みっちゃんを見据えて自立を求めていた
薫子さんの厳しさは、単なるスパルタではありませんでした。
高嶋ちさ子さんは、母から「みっちゃんのお世話役」「みっちゃんがいなかったら産んでない」と言われていたことを明かしています。
かなり強い言葉ですが、そこには姉・未知子さんの将来を見据えて、きょうだいが自立して稼げるようにならなければならないという、母なりの現実的な考えがありました。
実際、母は「あなたと太郎が面倒をみないといけないんだから、ちゃんと自立して将来稼げるようにしなさい」と言い聞かせていたそうです。
優しい言い回しではありませんが、将来起こることから目をそらさず、家族に必要な力を先に持たせようとする母だったことはよく分かります。
しかもその厳しさは未知子さんにも向いていました。
障害があるからと甘やかすのではなく、礼儀、身だしなみ、教育に厳しく接していたという話もあり、家族全体に同じ基準で向き合っていたことが見えてきます。
「守る」より先に「生きていけるようにする」。薫子さんの厳しさの芯は、ここにありました。
高嶋ちさ子の母の死因は間質性肺炎 余命2カ月宣告から2年近く生きた
高嶋ちさ子さんの母・高嶋薫子さんの死因は、間質性肺炎です。
2015年ごろに難病の間質性肺炎と診断され、当初は「2カ月以内に死ぬ」と言われるほど重い状態だったと語られています。
高嶋ちさ子さん自身も、そのときは「母がいないと生きていけないから、一緒に死のうと思った」と振り返っており、衝撃の大きさが分かります。
それでもすぐに亡くなったわけではなく、約2年間を生き、自宅で寝たきりの生活を送りました。そして2017年8月29日、79歳で亡くなっています。
ただ、この章で印象に残るのは病名だけではありません。
余命2カ月と言われながら生き延び、最後まで家族の会話の中心にいたことまで含めて、薫子さんの存在感は強かったままでした。
高嶋ちさ子の母の晩年は?寝たきりでも毒舌とユーモアが消えなかった
薫子さんの晩年で強く残るのは、病気の重さよりも言葉の強さです。
高嶋ちさ子さんが「寝たきりでもなんでもいいから、ずっと生きていてほしい」と言うと、母は「あんた、勝手なこと言うのやめなさい。こっちの身にもなってみなさいよ。ベッドに座っているだけじゃ、ケアマネージャーの家族構成を聞かされるくらいしかないのよ。それぐらいつまらないのよ、私は。だから、そろそろいいでしょう」と返したといいます。
弱っていても相手に合わせた慰め方をしない、薫子さんらしい言い返しです。
さらに、母が容態の悪化した時期に、高嶋ちさ子さんが「みっちゃん残して死ねないって言ってたじゃん!」と強い口調で言うと、母は「もうしょうがないじゃないのよ!」と返し、そこから「未知子、お母さんと一緒に死のう!」「嫌だって言ってるでしょう!」というやり取りにまで発展したと語られています。
深刻な場面なのに、どこかコントのように聞こえるのが高嶋家らしいところです。
しかも、高嶋ちさ子さんは週に3、4回食事を作りに通い、最後の方には母が好きだったチェロを一緒に伴奏していたとも話しています。
厳しい母でしたが、最後まで娘との距離は濃く、関係は強いままでした。
高嶋ちさ子の母の葬儀エピソードが濃い 数独の本と“呼ばない人リスト”まで残した
薫子さんは、亡くなったあとまで高嶋家の空気を動かした人物でした。
生前から「葬式はやらず、一年後にしのぶ会をやればいい」と言っていたそうで、しかもチラシの裏に「呼ぶ人」と「呼ばない人」の名前を書いていたといいます。
さらに、そのリストはお見舞いの品によって入れ替わったという話まであり、自分が好きな果物を持ってきてくれた人は呼ぶ側に移し、気に入らない人は外すという徹底ぶりでした。
葬儀でも、高嶋家らしい騒がしさはそのままでした。
棺に何を入れるかで兄が「みっちゃんじゃね」と言い、未知子さんが「そんなの嫌に決まってるでしょう!」と返し、結局は母が好きだった数独の本を入れることになったものの、今度は父が「筆記用具がない。鉛筆がなきゃできないだろう」と言い出してまた騒ぎになったといいます。
しんみりした美談より、最後まで笑いと口げんかが同居しているところが薫子さんらしいところです。
亡くなったあとまで場をかき回せるほど、家族の中心にいた母でした。
高嶋ちさ子の母は高嶋家の空気を作った中心人物だった
高嶋ちさ子さんの母・高嶋薫子さんは、慶応ワグネル出身で、東芝レコードに入社し、父・髙嶋弘之さんと出会った元ピアニストでした。音楽の素養が深く、会話も面白く、父が強く惹かれたのも納得できる人物像です。
一方で、母としてはかなり厳しく、娘の才能を早い段階で見極め、努力には大きく投資し、姉・未知子さんの将来まで見据えて自立を求めてきました。
優しいだけの母ではなく、現実を直視して家族を鍛える母だったことが、高嶋ちさ子さんの原点になっています。
晩年は間質性肺炎で寝たきりになっても毒舌とユーモアを失わず、葬儀やしのぶ会の場面にまで濃い個性を残しました。
高嶋ちさ子さんの強さ、言葉の鋭さ、家族全体の濃さは、母・薫子さんが作った空気そのものだったと言っていいでしょう。

